帯刀治先生 

先日、産経新聞に神山町のことが大きく取り上げられていました。

その記事を見たワクチン時代から大変お世話になっているSさんからお電話をいただき、江崎さん、ずいぶん前から神山に行ってたと思うけど神山ってすごいところなのね~どうして神山にご縁ができたの?と聞いてくださいました。

その経緯をお電話でお話すると、やっぱり人のご縁ねえ、大事にしなさいね、とおっしゃっていただきました。本当にそのとおりです。Sさんも私たちのことを暖かく見守ってくださる恩人のおひとり。

そこで、私がこれまで出会い、影響を受けた尊敬する方たちをこの雑記帳でご紹介していきたいと考えました。

まずはじめに、帯刀治(たてわきいさお)先生です。(神山に行くきっかけになったトムさんはまたの機会に)

帯刀先生との出会いをご紹介するには、私の半生に少し触れなければなりません。

高校を卒業したあと地元企業に就職し、事務職員として働いていた私は、1年半で社内結婚、25歳で2児の母になりました。

世間知らずの子どもが子どもを育てているような状態、そのころも水戸時代の社宅の方や、取手時代の団地の方に本当にお世話になりました。

二人目の息子を出産し1歳半くらいになったころ、子育て中って子どもの成長を見守るとっても楽しい時間なのですが、一方で発想を転換すると自分が子どもの時間に合わせればけっこう自由な時間が作れます。なんといっても子どもは寝ている時間が多いんです。子どもに合わせて食事と睡眠、そしてお天気のいい日は公園で遊ぶ、それさえ確保できればかなりの時間、子どもは寝ていてくれます。子育て中ってものすごくいい時代なんじゃないか!と気が付きます。

まず、子どもが寝ている間に牛乳配達をすることにしました。朝の2~3時間毎日働けば毎月10万円くらい稼げます。そうして主婦でも自由になるお金が作れると思ったら、今度は放送大学で勉強しよう、水戸には茨城大学内にサテライトキャンパスがあって茨大の図書館も使える、けっこういい環境じゃないか。実際、子ども二人を育てていくにあたって、無知で、世界の狭い自分に自信を無くしていました。勉強したい。

通信制の大学なので、テレビやラジオで授業を聞いてテストを受けます、茨城大学の中に自習室もあって、また直接講義を受けることもできました。そこで出会ったのが茨城大学人文学部、地域社会論ゼミナールの帯刀治教授でした。

たしか、まちづくり論、というような講義だったと思います。当時、私は教育社会学という分野に関心があって授業を取ったり本を読んだりしていましたが、どうも自分の知りたいことに出会えなかった、そんなときたまたま集中講義で受講した帯刀先生の講義が衝撃的でした。

まちづくりは、行政だけがやってくれるものではない、市民がこうしたい、こういうことに困っている、こんな商店街になったらステキじゃないか、こんな公園があったらいいよね、ということを提案し実践する、そのために市民活動が法人格を持てるようになるし、行政と対等に協働することが始まっている、そういう内容だったと思います。そうそう、そういうことが私もしたかった!まさに出会ってしまった、と思いました。

でも実は、その講義をとってから1年くらいは直接お話する機会が無かったんです、ある日、放送大学の茨城キャンパス(当時の茨城大学内にある地域総合研究所)に掲示板があり、先生に指導相談ができます、というものを見つけました。帯刀先生のお名前もありました。すぐに帯刀先生にご相談したい、と申し出ました。それが最初の出会いです。

どこの馬の骨ともわからない、バツイチ子ども2人、フリーターの私の話を真摯に受け止めてくださり、NPOのことを勉強したい、という何も知らない無邪気な私に、「僕のゼミにきなさい」と言ってくださいました。もちろん、授業料なんて無しで。そして、茨城NPOセンター・コモンズの横田さんを訪ねなさいと。

それが1999年ごろです。特定非営利活動促進法ができたのが1998年、県内にNPO法人がまだ十数件しかないときでした。

帯刀ゼミの授業がまた強烈でした。後に、諸先輩方にお話をきくと、私がゼミに押しかけていたころはすでにかなりまろやかになっていたそうで、若いころはそれはもう厳しい指導だったようです。基本的には、社会学の古典派の文献を原文で読む題材があり、それを担当ゼミ生が翻訳し、解釈を発表します。それに対して議論をするという形でした。マックスウェーバー、デュルケム、私にとっては新鮮な話ばかり。そして、子育て中の生活者のひとりとしての私の素朴な疑問を歓迎してくれて、学生にとっても勉強になるから遠慮しないで来なさい、子どもを連れての参加も歓迎、と。日立や鹿島の合宿にも子連れで参加させていただき、そのころの学生さんたちにも大変お世話になりました。

こうして、思いがけず社会人大学生という時代を帯刀先生の元で過ごすことができました。そして横田さんとのご縁で、世界の子どもにワクチンを日本委員会の理事をしていた吉田里江さんと出会います。吉田さんのことは、また別の会でご紹介します。

2002年、放送大学を卒業した私は、東京、霞が関に事務所がある世界の子どもにワクチンを日本委員会で電話番として週に3日ほど勤務することになります。911のテロの影響で、国連こども特別サミットが延期になり、そこに茨城出身の子ども代表、小暮倫子さん、吉本裕之くんがニューヨークのサミットに参加するため、ワクチン委員会の事務局長ブーン智津子さんと吉田さんが同伴する、そのための留守番でした。

そのご縁から、当時はまだ珍しかったNGOの有給職員として7年半、勤めることになります。このとき、実は帯刀先生は反対されました。まだNPO・NGOで子どもふたりを食べていかせるだけの安定した収入は得られない、苦労をするぞ、ということからだと思います。

それからも、ときどき帯刀ゼミにお邪魔したり、社会人講師として大学生にお話をさせていただく機会を設けていただいたり、茨城NPOセンター・コモンズの活動にも参加させていただきました。帯刀先生がつくったひきこもりがちな青年の支援をする「NPO法人とらい」の集まりに参加したり。定期的に水戸に通ってお昼ご飯をご馳走になりながらいろんなことをご相談してきた、ブレーンとしてずっと支えていただきました。

2010年、ソノリテを立ち上げる際には、何も言わず、あなたができると思うなら応援します、と言って快く会長に就任してくださいました。

島根県出雲市出身の帯刀先生、自己紹介では、帯刀(たちわき)というのは武士の時代、殿様を守る盾だったんだ、とよくおっしゃっていました。そんな先生が大学院生のころ茨城の鹿島開発の調査・研究に参加され、それからずっと茨城の地域を見つめてこられました。本当にすごい先生なんです。シャープで理論的、だけどマイノリティの立場に常に立って理論を組み立てる。先生の教え、ご助言があったからこそ、私は、ソノリテは、NPO活動がなぜ必要とされているのか、理論に裏付けされた活動を実践してこれたと思います。

定年になったら、マルチハビテーションライフ(多拠点生活)を送るんだ、とおっしゃっていました。まさに、私は、東京、茨城、神山、と地域を越えてそこにいる人たちとのつながりによって自由な暮らし方をさせていただいていると思っています。

先生から教えていただいた3つの言葉があります。

1 衆志を集め群力を宣べ以て国家無窮の恩に報いなば、(水戸学の一節、市民の声を集め、力を集約して困難に向かう)

2 知らないことは知っている人に聞け、できないことは出来る人に頼め、お金が無ければお金がある人に頼め

3 社会的分業論による有機的連帯(権力も財産も独占するのではなく、それぞれの専門家が分業するがそれらが有機的に連帯をすることによって社会を営む)

昨年、突然の訃報にまったく気持ちも実務も準備ができていなかったのですが、今、帯刀ゼミOB・OGのみなさんをはじめ、先生とご縁のあった方たちと先生の軌跡をまとめるプロジェクトを進めています。この話し合いがまたとっても刺激的です。アドバイザーの斎藤義則先生をはじめ、諸先輩方とこうしてつながっていけるのも、帯刀イズムのおかげです。

「帯刀治先生の足跡をたどる有志の会」ではサイトを用意して先生の論文や関係者による寄稿などを募っています。いずれ、DVDに編集する予定です。ご関心のある方はこちらをご覧になってみてください。